一日の活動が始まる。
夫を会社に、子供も学校に送りだす。
食事の片付け、朝の一仕事が終わる。
玉渊潭公園に案内してもらったのはそんな時間帯だ。
玉渊潭は「皇帝のそばの水辺」との意味だそうだ。
清王朝時代、皇帝が憩う場であった。
いまは市民が自由に入れる公園になっている。
ただし、年間パスポートを購入し、それを提示する。
朝の玉渊潭には多くの人たちが集まっていた。
体操をする人、ダンスをする人、スポーツをする人。
集まっているのは、家族を送り出したあとの主婦たちや、
退職に達したと思われる人たちがほとんどだ。
テレビの旅番組で見たことのある、あの光景とはちょっと違う。
お年寄りはあまり見かけない。
50代、60代が中心で、それより若い主婦たちも多くいる。
服装も色とりどりで、華やかな雰囲気だ。
男性たちが多いのもバランスがとれていていい。
人々は小集団に分かれる。
一人で行動する姿は見かけない。ジョギングする人もいない。
各自が自分に合ったいずれかのグループに入る。
50名近い人たちが集まっている大集団があるかとおもえば、
4、5人のこじんまりとしたグループもある。
グループ独自の振り付けで身体を動かす。
昔流の動きでなく、現代風太極拳といった運動だ。
古来の武術の動きを取り入れた柔軟体操とでもいおうか。
エアロビックスぽい体操にアレンジしているグループもある。
ダンスに興じる人たち、スポーツに汗を流す人たちも大勢いる。
社交ダンスは10組ほどの男女が一つのグループを形成する。
スポーツもグループ毎、まとまって興じる。
大きなシャトルコックを蹴り合う伝統的なスポーツの集団もいる。
個々のグループはそれぞれ特徴ある色彩を放す。
持参のスピーカーから流れる曲にあわせて、身体を動かす。
上手な人、まだ動きが完璧でない人、いろいろいるが、
グループ全体として見れば、それは調和がとれ、美しい情景だ。
それぞれが楽しげだ。
一方、グループ間といえば、ばらばらで勝手な動きをする。
2,3m離れたところに別のグループが陣をはる。
大きなアンプを持ち込み、曲を流し、集団が舞う。
隣りのグループは、負けじと自分たちの曲を流す。
アンプが用意できないのか、ラジカセを使う小グループもいる。
隣りの大音響にかき消されながらも、奮闘し、曲に動きを合わせる。
社交ダンスに、隣りのエアロビのアップテンポな曲がかぶさる。
そんなことは無視して、優雅に舞う。
他のことにはお構いなく、自分たちの世界を展開し、そこに楽しむ。
小集団内部での一糸乱れぬ動きの緻密さ。
それに比べ、集団間の遠慮のなさ、調和のなさ、荒っぽさ。
この落差が面白い。
北京市民はいま、あまり良いとはいえない環境下にある。
空気は汚れ、道路は車が我がもの顔で爆走する。
街路樹も冴えがない。
そんななか、市民は自己防衛の行動をとる。
日ごろたまった鬱屈を発散する。
唯一残された緑と水の空間を求め、公園に集まる。
ここで身体を動かすことが健康に一番いいのだ。
公園中央の池は"気"を運んでくる。
人々は身体の動きを"気"に一体化させる。
そこには、健康保持というもの以上のなにかがある。
彼ら彼女らなりの自己主張を感じとりたい。
し烈な外部世界の中で、内なる世界として
"われ、ここに動ぜず"の気概が迫ってくる。
そこにはなんとも形容のしようがない"タフさ"を感じる。
これから、北京もまた、大きく変化していくだろう。
いずれは高齢化社会に突き進む。
一人っ子政策は人口減少を引き起こす。
労働人口の減少は経済成長力の鈍化を引き起こす。
一人っ子は両親、そのまた親たちと、1人当たり6人を背負う。
強みであり、心の拠りどころであった家族も姿を変えていく。
この変化に自分なりに対処して行かねばならない。
国家がなんとかしてくれるだろうとの甘えはない。
彼らには、国に頼らぬ覚悟はできている。
そんな気概を今回の光景のなかに垣間見た。
うつむいている人はいなかった。
2011/11/26