北京再訪(6) 玉渊潭公園にて思う

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Flash:北京再訪 玉渊潭公園にて思う

一日の活動が始まる。

夫を会社に、子供も学校に送りだす。
食事の片付け、朝の一仕事が終わる。

玉渊潭公園に案内してもらったのはそんな時間帯だ。

玉渊潭は「皇帝のそばの水辺」との意味だそうだ。
清王朝時代、皇帝が憩う場であった。
いまは市民が自由に入れる公園になっている。
ただし、年間パスポートを購入し、それを提示する。

朝の玉渊潭には多くの人たちが集まっていた。

体操をする人、ダンスをする人、スポーツをする人。
集まっているのは、家族を送り出したあとの主婦たちや、
退職に達したと思われる人たちがほとんどだ。

テレビの旅番組で見たことのある、あの光景とはちょっと違う。

お年寄りはあまり見かけない。
50代、60代が中心で、それより若い主婦たちも多くいる。
服装も色とりどりで、華やかな雰囲気だ。
男性たちが多いのもバランスがとれていていい。

人々は小集団に分かれる。

一人で行動する姿は見かけない。ジョギングする人もいない。
各自が自分に合ったいずれかのグループに入る。
50名近い人たちが集まっている大集団があるかとおもえば、
4、5人のこじんまりとしたグループもある。

グループ独自の振り付けで身体を動かす。

昔流の動きでなく、現代風太極拳といった運動だ。
古来の武術の動きを取り入れた柔軟体操とでもいおうか。
エアロビックスぽい体操にアレンジしているグループもある。

ダンスに興じる人たち、スポーツに汗を流す人たちも大勢いる。

社交ダンスは10組ほどの男女が一つのグループを形成する。
スポーツもグループ毎、まとまって興じる。
大きなシャトルコックを蹴り合う伝統的なスポーツの集団もいる。

個々のグループはそれぞれ特徴ある色彩を放す。

持参のスピーカーから流れる曲にあわせて、身体を動かす。
上手な人、まだ動きが完璧でない人、いろいろいるが、
グループ全体として見れば、それは調和がとれ、美しい情景だ。
それぞれが楽しげだ。

一方、グループ間といえば、ばらばらで勝手な動きをする。

2,3m離れたところに別のグループが陣をはる。
大きなアンプを持ち込み、曲を流し、集団が舞う。
隣りのグループは、負けじと自分たちの曲を流す。
アンプが用意できないのか、ラジカセを使う小グループもいる。
隣りの大音響にかき消されながらも、奮闘し、曲に動きを合わせる。
社交ダンスに、隣りのエアロビのアップテンポな曲がかぶさる。
そんなことは無視して、優雅に舞う。

他のことにはお構いなく、自分たちの世界を展開し、そこに楽しむ。

小集団内部での一糸乱れぬ動きの緻密さ。
それに比べ、集団間の遠慮のなさ、調和のなさ、荒っぽさ。
この落差が面白い。

北京市民はいま、あまり良いとはいえない環境下にある。

空気は汚れ、道路は車が我がもの顔で爆走する。
街路樹も冴えがない。
そんななか、市民は自己防衛の行動をとる。
日ごろたまった鬱屈を発散する。

唯一残された緑と水の空間を求め、公園に集まる。

ここで身体を動かすことが健康に一番いいのだ。
公園中央の池は"気"を運んでくる。
人々は身体の動きを"気"に一体化させる。

そこには、健康保持というもの以上のなにかがある。

彼ら彼女らなりの自己主張を感じとりたい。
し烈な外部世界の中で、内なる世界として
"われ、ここに動ぜず"の気概が迫ってくる。
そこにはなんとも形容のしようがない"タフさ"を感じる。

これから、北京もまた、大きく変化していくだろう。

いずれは高齢化社会に突き進む。
一人っ子政策は人口減少を引き起こす。
労働人口の減少は経済成長力の鈍化を引き起こす。
一人っ子は両親、そのまた親たちと、1人当たり6人を背負う。
強みであり、心の拠りどころであった家族も姿を変えていく。

この変化に自分なりに対処して行かねばならない。

国家がなんとかしてくれるだろうとの甘えはない。
彼らには、国に頼らぬ覚悟はできている。
そんな気概を今回の光景のなかに垣間見た。
うつむいている人はいなかった。

2011/11/26

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