熟年挽歌  13. 公開講座 −困難な問題

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 最近、出るのが億劫で、
 よく行っていた公開講座も今年は行っていない。

これでは脳も老け込むと思い、今回、
武蔵野大学仏教文化研究所主催のセミナーに出かけてみた。

『死ぬ苦しみからの解放と人間の成長』がテーマだった。
テーマは武蔵野大学看護学部 種村健二朗教授が設定された。

 はじめに、ゲストスピーカーのよる講演、

 ・死を宣言されたがん患者の体験
     前埼玉医科大学教授 渡辺孝子氏
 ・縁生の力
     飛騨千光寺住職 前高野山大学客員教授 大下大圓氏
 ・スピリチュアリティと親鸞の死生観
     龍谷大学教授 鍋島直樹氏

 そのあと、質疑、討論とつづくのであったが、

いつもはする質問も今回は内容が内容だけに形にならない。
それにこのテーマで、それも大勢(聴講者は200名ほど)が
討議するのにも抵抗感があり、3つの講演(お話し)を
聴かせていただいただけで、会場をあとにした。



 話しは少しそれるが、最近、限界を感じだしている。

若いときからそうなのだが、
他人の話し、相談事や悩み事、あるときは愚痴めいた話しさえ、
それを聞くとそのままにしておくのが耐えがたく、
聞いたことをあれやこれやと分析し、
なにがしでも解決策を考え、助言したくなる。
というより、反射的にそのような行動をとってきた。

 それが最近、疑問を感じはじめているのだ。

この歳になると、相手は解決策を出してほしいと願って
話しているのでは必ずしもないことがわかってくる。
口に出すことでストレスを発散している気配もときたま感じる。
それに、結論は既に本人が出しているのに、それを確認するため、
確証を得るため、話しをしているときもある。

 話しは戻るが、

死とか人間存在そのものに関する課題には答えはない。
なにが苦痛のもとかと分析したり、それを取り除く策を提示しよう
などという知的アプローチはふさわしくないように思える。

 とは言え、現実問題として、この苦痛は存在する。

日々、これといってやることもなく、
また行動に移す気力・体力もうせていく者が目の前にいる。

「なにもすることもできないのになぜにお迎えが来ない」と問う。
解決へ向う道筋を示すことができない。
この問いかけを放置している。

 そうなのである。

いつの日か、必ず自分に襲ってくるであろう
この根源的苦痛に手をこまねいているのだ。


講演を聴き終わり、重たい足でペタルを踏んで帰る道々、

 昔はこのあたりは一面の畑だった
 遠くに武蔵野の雑木林が見えた

 あのころは何を考えていたのだろう。
 遠くへいくことだけがただただ愉しかった。

   少年はこぐことだけがたのしくて
   走りまわりし野辺の武蔵野

 変わる風景とともに自分もたしかに変化している。
 でも、それを成長と言いきれない自分もいる。

これまでに体験したことのない重たく、そして切実なテーマに
向うざるを得ない年代にきているのだ。

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