熟年からのインターネット NO.93
第五章 メーリングリストの風景

  2.円形劇場と縄跳び

 場面は変わって、僕は円形劇場を見下ろす丘の上に 立っていた。観客席は石が引き詰められ、通路の段段 を降りていくと、そこは円形の舞台になっている。

囲炉裏を囲んでいた人々がその舞台の上に立っている。 告白の場面、かけあいの場面、群舞の場面。見まわせ ば、多くの人たちが芝居を楽しんでいる。演技者と観 客がいっしょになってギリシャの宵を染めている。 古代劇場は声の通りがよい。小さな声も最上段の観客 まで届く。そんな野外の舞台が、僕のML第3シーン でした。

全員に「投稿してください」と言うのは無理なこと、 不自然な事だと思えるようになってきました。読む人 があって、書く人がいる。観客が見つめるなか、芝居 は熱をおびる。あるときは舞台に、あるときは観客で 楽しみます。

 ところで、私は劇場型MLという言葉をこれまでも 使ってきました。でもよくよく考えれば、これは適切 なたとえかと疑問が出てきました。演劇には演出家が います。主役もいます。それに該当する人が、MLの 場合、いるでしょうか? 舞台にあがればその瞬間、 主役になります。そうなのです、みなが主役になれる 資格があるのです。それに「あーせい、こーせい」と いう口うるさい演出家もいません。台本もありません。 演題もありません。自由に話は広がっていきます。

そんなときでした、MLを「なわとび」に喩える投稿 があったのは。 これは感じるところがありました。

 縄跳びに興じる子供たち。これが僕の第4の風景で した。そこは公園です。緑におおわれた木々があり、 樹下にはベンチがあり、三々五々、人々が集まり、 くつろいでいます。中央ではなわが大きな弧を描き、 そのなかを子供たちが楽しげに飛び跳ねています。 半ズボンの男の子もいます。三つ編みの女の子もいま す。編物の手を休め、それを笑顔で見つめるひと。 それはどこかで見かけた風景でした。

縄跳び」という喩えはMLの特性をよく言い表して います。

輪の中では誰が主役と決めつけられません。演出家も いません。テーマもありません。これといった主張も ありません。ただただ飛び跳ねているだけです。飛び 疲れたら、そとに出て一休み。

これは、見つめる側に立っても絶妙なたとえです。 「おはいなさい」と言われてもなかなか輪の中に入れ ませんよね。皆、うまく飛んでいるのに、自分が足を ひっかけたらとか。今度入ろう、つぎは入ろうと、か まえるけれど、縄は地を打ち、タイミングを逸する。 慣れた人は出たと思ったら、もう下の手に回ってきて、 又、ひょいと入ってしまう。「縄跳び」とは言い得て 妙です。

縄跳び型MLをイメージしたとき、ふと思ったのです。 ところで「誰がつなを廻しているの?」。

外から眺めているひとなら見えるかもしれません。 でも飛んでいる当人たちは廻す手を見るのがやっと。 うしろの者など前の人の背中しか視野に入りません。 私も縄の中。顔をしげしげと見たことはありません。

「さてさて、誰が廻しているの?」 わからないまま、飛び跳ねている僕なのです。




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