七月の或る一日

 武蔵野大学文学部の公開講座「俳句と連句を楽しむ」(講師:浅沼璞氏)を聴いた影響があったのであろう。連句とやらに挑戦しようと思い立った。


ひさびさに友部の家に帰った。ここ2年ほど花をつけなかったアジサイが今年は咲いていた。花芽を切り落とさぬよう注意した剪定がよかったのであろう。ただ、残念なことは盛りを過ぎてしまったことだ。アジサイには申し訳ないとの気分がした。

  紫陽花や あるじ居ぬ間に 色あせし

これを発句として連句に入ろうとしたが、これがすこぶる難しい。七七の表現形式に慣れないこともある。五七五で世界が一度完結しているのに、それに七七をつけるということは余分なことのように感じてしまう。もし七七をつけるなら、それだけでもうひとつの世界をつくればいいのだが、これがむずかしい。それに七七の脇句には体言止めとのルールが加わる。頭をかかえたままでは前に進まない。まあここは「言葉と言葉の連想ゲーム」の精神だけを見習って、慣れた五七五の句型にすることにした。

「色」から連想して「空」とした。この連想は、多分『般若心経』から来たのだろう。

  つゆ空や 枝は濃くなり 草茂る

つぎの連想はいたって単純で、「茂る」から「刈る」という動作。実際にそのように行動したが。

  草刈るも すっくと残し ねじれ花

つぎは「ねじれ」から「のばす」を連想した。

  背を伸ばし みどりの汗を ぬぐひたり

連想ゲームもここまでくると、あとは自分の行動を追っていけばよい。「汗」から「お風呂」につながる。

  湯あがりや 網戸を透かし 庭の面

そろそろ締めねばならぬ。最後の句を挙句というそうだ。しかし、ここでちょっと立ち止まってしまった。慣れないこともあるが、五七五の形式がどうもしっくりと来ない。五七五の器では気持ちがすくえきれないといったらいいだろうか。七七がつく短歌形式が恋しくなった。

夕方の「庭の面」をながめていると、今日一日の充実感が寄り添ってくる。

  うつりゆく日がらいちにち身をおいて

     変化のたえに色みつるべし

不思議なもので短歌を詠みながらも「言葉と言葉の連想ゲーム」がついてくるのであろう。「変化」から七変化、つまり発句の「紫陽花」へとつながりがもどっていった。


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