旅の愉しみにはいろいろある。
人との出会いもそのひとつだ。
松山に着き、市営の駐輪場で自転車を借りる。
市街地をぬけ、最初の目的地五十三番円明寺に向う。
寺に着き、自転車を停め、境内に入る。
参拝を終えたおばあさんが近づいてくる。
「気持ちだけよ、少ししか入っていないから」と
いいながら、小さな紙の包みをにぎらせる。
私は礼をいい、長生きした母のことなどいっとき話す。
「自分も歩けるときは何度となく廻ったんだよ」。
近所に住んでいて、こうしてお参りしているそうだ。
こんなとき、あゝ来てよかったとつくづく思う。
こういう出会いがあるから、歩き遍路はたまらない。
巡礼をしている者同士の出会いも色をそえる。
歩き遍路はおおよそ寡黙な人が多い。
重たい事情をかかえ、おへんろをされている方もいる。
出会うと一応は「こんにちは」と声をかける。
その反応をみて、その後を決める。
話したくない人もおれば、そうでない人もいる。
四十五番岩屋寺を打ち、泊まったへんろ宿、
年のころ七十にはもうちょっとと思われる男性と食堂で会う。
隣りのテーブルなので、挨拶して席につく。
話を聞いてみると、片肺が機能していないとのこと。
そんな身体で歩き遍路をしている。
「登りになると、息がきれて足が前に進みませんよ」という。
だが、テーブルの上にタバコの箱。それに気づいた私に、
「医者にはやめろといわれるが、いまさらね」と言い返す。
こんなこと、口には出せないが、
他者と比べると先はそんなに長くないことを
本人はもうとっくに自覚しているのではなかろうか。
八十八番大窪寺へのバスで乗り合わせた若者も印象深かった。
足が若干不自由で杖2本をつきつつ、巡礼している。
今回で二度目の結願だそうだ。
彼とはバスを待つ間、いろいろ、話ができた。
四国遍路は人々が織り成す曼荼羅のようだ。
さまざまの思ひが入りてまじりあふ
四国へんろに我れも色をそふ