八十八番大窪寺に着いたが、感激がない。
八十七番から歩いてくればよかったのか。
歩くつもりだったが、目論見どおりにはいかない。
八十七番長尾寺に着いたのは昼過ぎ。
歩いていくには時間的に無理だ。
十七キロはあると書かれている。
近道もあるが、山越えだ。
それを自分への言い訳にバスに乗ってしまう。
さぬき市が支援して運営する地域限定バスだ。
ありがたいことに大窪寺前まで運行している。
このバスを利用させていただく。
しかし、苦労せず到着したせいだろう、感動がわき出ない。
最後の最後は歩くべきだったかと悔いる。
それにしても境内は大層な人出だ。
団体バスでまわる集団でごったがえしている。
ここが結願という思いからであろう、声も華やいでいる。
まるで縁日のようだ。
これではなんともおさまりがつかない。
逆打ちといって、反時計廻りにまわる巡礼もある。
つまり、再び八十七番に戻るルートだ。
翌朝ここを出発して、徒歩で行けばいい。
それには泊まるところが必要。
へんろ宿に玄関に立つが、なぜか宿泊は断られる。
日曜だったせいだろうか。
いずれにせよ、いまの時代、予約なしはきつい。
八十七番まで歩き戻るという取り返しも断念せざるを得ない。
せめてもと、へんろ道となっている大窪寺の裏の女体山を登る。
三十分ほど急坂を登って時間切れ。折り返して戻る。
戻った境内で再び本堂に向い、礼をいう。
団体へんろの喧騒はいくらかおさまっている。
しかし、夫婦づれや数人のグループは途切れることなくやってくる。
自動車で来たのだろう。
四国巡礼はよくできたシステムだ。
すべてを打ち終わり、つくづくそう思う。
山深き寺、山麓の寺、街中の寺、それらがうまい具合に配置される。
寺と寺との距離も変化に富み、絶妙な配分だ。
また、イスラムやキリスト教巡礼のように一点に向う直線型と違う。
ここで終わりということがない。
どこから始めてもよいという。
順打ちでもよい。逆打ちでもよい。
地域に分けて、まわってもよい。
二回、三回、さらに数十回もまわられている人もいる。
四国に限らず、へんろ旅はどこにでもあると思う。
この世にいるかぎり、いつまでも修行の身。どこもがその道場だ。
多くの人々に助けられ、大きな自然につつまれながら、
生きるという修行はつづく。
その姿を仏がみつめておられる。
結局、その日は高松に戻る。
翌朝、高松のホテルで目を覚ました。
カーテンをあけると、空はまだ朝ぼらけ。
歌がいくつかできた。
さらさらに終えたと思わぬ巡礼の
あけた窓にも月は御座しおる
こうして、終わりなきへんろ旅は一応の区切りがついた。
一周忌法要に納経帳がお供えできる。