第11章 四国遍路 その5 おわりなき

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八十八番大窪寺に着いたが、感激がない。

 八十七番から歩いてくればよかったのか。
 歩くつもりだったが、目論見どおりにはいかない。
 八十七番長尾寺に着いたのは昼過ぎ。
 歩いていくには時間的に無理だ。
 十七キロはあると書かれている。
 近道もあるが、山越えだ。

それを自分への言い訳にバスに乗ってしまう。

 さぬき市が支援して運営する地域限定バスだ。
 ありがたいことに大窪寺前まで運行している。
 このバスを利用させていただく。
 しかし、苦労せず到着したせいだろう、感動がわき出ない。
 最後の最後は歩くべきだったかと悔いる。


それにしても境内は大層な人出だ。

 団体バスでまわる集団でごったがえしている。
 ここが結願という思いからであろう、声も華やいでいる。
 まるで縁日のようだ。

これではなんともおさまりがつかない。

 逆打ちといって、反時計廻りにまわる巡礼もある。
 つまり、再び八十七番に戻るルートだ。
 翌朝ここを出発して、徒歩で行けばいい。
 それには泊まるところが必要。

へんろ宿に玄関に立つが、なぜか宿泊は断られる。

 日曜だったせいだろうか。
 いずれにせよ、いまの時代、予約なしはきつい。
 八十七番まで歩き戻るという取り返しも断念せざるを得ない。
 せめてもと、へんろ道となっている大窪寺の裏の女体山を登る。
 三十分ほど急坂を登って時間切れ。折り返して戻る。

戻った境内で再び本堂に向い、礼をいう。

 団体へんろの喧騒はいくらかおさまっている。
 しかし、夫婦づれや数人のグループは途切れることなくやってくる。
 自動車で来たのだろう。


四国巡礼はよくできたシステムだ。

 すべてを打ち終わり、つくづくそう思う。
 山深き寺、山麓の寺、街中の寺、それらがうまい具合に配置される。
 寺と寺との距離も変化に富み、絶妙な配分だ。
 また、イスラムやキリスト教巡礼のように一点に向う直線型と違う。

ここで終わりということがない。

 どこから始めてもよいという。
 順打ちでもよい。逆打ちでもよい。
 地域に分けて、まわってもよい。
 二回、三回、さらに数十回もまわられている人もいる。

四国に限らず、へんろ旅はどこにでもあると思う。

 この世にいるかぎり、いつまでも修行の身。どこもがその道場だ。
 多くの人々に助けられ、大きな自然につつまれながら、
 生きるという修行はつづく。
 その姿を仏がみつめておられる。

結局、その日は高松に戻る。
   翌朝、高松のホテルで目を覚ました。
 カーテンをあけると、空はまだ朝ぼらけ。
 歌がいくつかできた。

   さらさらに終えたと思わぬ巡礼の
   あけた窓にも月は御座しおる

     こうして、終わりなきへんろ旅は一応の区切りがついた。
     一周忌法要に納経帳がお供えできる。

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